黒田長政の子供万徳丸こと黒田忠之とは?黒田騒動と栗山大膳も紹介!

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こんばんは。Masashiです。

大河ドラマ「軍師官兵衛」も今日で最終回。
黒田長政と栄姫の間に子供の万徳丸が生まれ
めでたしめでたし・・・とドラマでは描かれてるのですが
実際には、この後黒田家は「黒田騒動」という
とんでもない事態が起こってるんですよね。

黒田騒動と万徳丸こと黒田忠之、そして栗山善助の子供である
栗山善助について調べてみました!


黒田忠之と栗山大膳のプロフィール 2人の関係は?



まずは万徳丸こと黒田忠之のプロフィールから。


生誕  慶長7年11月9日(1602年12月22日)
死没  承応3年2月12日(1654年3月30日)
改名  万徳丸(幼名)→忠長→忠政→忠之
墓所  東長寺(福岡県福岡市博多区)
官位  従四位下・筑前守、右衛門佐
主君  徳川秀忠→家光
藩  筑前福岡藩主
父母  父:黒田長政、母:栄姫
妻  正室:久姫(徳川秀忠養女)継室:坪坂氏
子  光之、之勝、通(養女、池田輝興娘、黒田之勝室)




ちなみに肖像画はこちら。


スクリーンショット 2014-12-21 19.26.08

何だかとても頼りなさそうな気が・・・



この黒田忠之ですが、
父親の黒田長政からは暗愚な息子だと思われていたらしく
長政も一時は黒田忠之を廃嫡しようと思ったそうです。


そこを取りなしたのが栗山大膳(くりやま だいぜん)という人物。


濱田岳さんが演じる栗山善助の息子ですね。


「栗山利章(くりやま としあきら)」と呼ばれることもあります。



プロフィールはこちら。


生誕  1591年2月15日(天正19年1月22日)
死没  1652年4月10日(承応元年3月2日)
別名  通称:大膳、大善亮
主君  黒田長政→忠之
藩   筑前福岡藩家臣
父   父:栗山利安、母:村尾氏の娘
妻   黒田利高の娘
子   利周、吉次郎、娘(中間六郎太夫妻)、娘(井上正友妻)




黒田忠之の廃嫡を行おうとする長政を諌めるため
栗山大膳は若手藩士を取りまとめ、忠之の廃嫡を止めるよう
黒田長政に対して連判状を送りました。


そして、もし長政がこれを止めなければ、
自分たち全員が切腹すると宣言します。


さすがの長政もこれを受け入れざるを得ませんでした。


そして、栗山大膳を黒田忠之の後見役に任命し、
1623年に死去します。


この長政死後の1623〜1632年までの10年間
黒田家に起こった対立が「黒田騒動」と言われるものです。



黒田忠之の行動が10年間にも及ぶ黒田騒動を引き起こした!


忠之の後見役を任された栗山大膳は気合いが入ったのか
彼に対して、早寝早起きをする事やお酒についての注意点を
あれこれ教育したみたいです。

スクリーンショット 2014-12-21 19.27.09栗山大膳:黒田騒動は後に歌舞伎でも盛んに取り上げられた題材でもある




しかし、忠之は栗山大膳にあれこれ言われるのが嫌だったみたいで
次第に彼と距離を置くようになります。


藩政についても、大膳ら長政の時代から仕えていた家臣を軽んじ
その所領を召し上げたり、減封などの対応をとります。


そしてその代わりに
自分の側近を重んじるようになります。



ここまでなら単なる藩内の権力闘争で片付けられそうですが
派手で豪勢なものが好きな忠之は、
藩のお金を使って「鳳凰丸」という豪華で大きな船を建造。



他にも200人の足軽を新たに採用したりもしています。


こうした忠之の行動は、
戦乱が終わった江戸時代にはあってはならないものでした。



自分の孫がこんな事をしていようとは
戦国乱世を終わらせようとしていた官兵衛が知ったら
あの世で悲しみ、激怒したでしょうね笑


栗山大膳はこうした忠之の行動を何度も諌めるのですが、
聞き入れられない所か、却って忠之は大膳を殺そうともしたようです。


主君・忠之の行動に気付いた大膳は自ら引退。
隠居先で福岡藩の今後を考えるのでした。




黒田騒動の結果は?黒田官兵衛の兜が盛岡にある訳は?



こうした黒田忠之の行動によって
福岡藩は幕府からの叱責を受けることになります。


また大膳も1632年には
黒田忠之が幕府転覆を企ている
という訴状を幕府へ送ります。


大膳のこの行動は、
いわば藩主に対する反逆以外の何者でもありません。


しかし大膳は「黒田長政と徳川家康の関係
つまり長政が関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利に貢献し
徳川幕府の樹立に貢献した事も踏まえつつ
福岡藩の現状を訴えるのでした。


一方の黒田忠之や福岡藩も
「栗山大膳は狂ってる!!」
と主張。



これに対して幕府は以下の事を決定します。


・栗山大膳は黒田騒動の責任を取って盛岡藩へ流罪

・黒田家は改易するが、黒田長政の功績を考慮してもとの領地を再度与える

・黒田忠之は長政の代の重臣と協力して政治を行うこと




つまり黒田家は「お咎めなし」だった訳です。


長政の徳川家への貢献がどれほどのものだったのか
改めてわかるエピソードですよね。


その後の黒田忠之は以前のような側近政治をやめ
重臣の意見を踏まえた上で政治を行ったとされています。


こうして黒田家は「黒田騒動」を乗り切った訳ですが
黒田家の九州における威信は弱まり、その変わりに
肥後(今の熊本県)を治める細川家の存在感が増したと言われてます。



さて、盛岡藩へ流罪となった栗山大膳ですが
この地を治める南部家から手厚く保護されたようです。


h41盛岡藩の藩主・南部家の家紋



大膳もこれを受け、盛岡藩の文化振興に貢献。
彼の子孫やその家臣は黒田家や福岡には帰らず
盛岡藩へ仕官したと言われています。



これは余談ですが、ドラマの最後で、
官兵衛が栗山善助に自分の兜を授けるシーンがあったかと思います。


capture-20140106-221637黒田官兵衛の兜「合子形兜」の実物



この兜はその後、善助から栗山大膳に受け継がれ
大膳はこの兜を持って盛岡へ移り住むことになります。



官兵衛の兜は現在「もりおか歴史博物館」と呼ばれるところで
大切に保管されています。




※参考:吉弘統幸は石垣原の戦いで奮戦!井上九郎右衛門の関係は?



まとめ


この記事のまとめです。



・黒田長政は息子の忠之を廃嫡しようとしたが栗山大膳に諌められ思いとどまった。

・長政の死から10年に渡り黒田騒動が勃発。忠之と栗山大膳ら重臣が対立した。

・黒田忠之は船の建造や足軽を採用したため、栗山大膳は彼を幕府に訴えた。

・幕府は黒田長政の功績を考慮し黒田家を咎めず、大膳を盛岡藩へ流罪とした。

・大善は黒田官兵衛の兜を持って盛岡に移住し、同地の文化振興に貢献した。




記事をお読みいただき
ありがとうございました。


では!

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