久坂玄瑞が高杉晋作から貰った手紙とは?墓所や辞世の句の意味も!

この記事は3分で読めます

本日の「花燃ゆ」から
東出昌大さん演じる
久坂玄瑞が本格的に
登場してきますね。

久坂玄瑞は高杉晋作と共に
「松下村塾の双璧」と
当時からその実力を高く
評価されていました。

そんな2人を結ぶ手紙が
あるんですよね。

また、久坂玄瑞の墓所や
辞世の句の意味も紹介します!



久坂玄瑞は「長州第一の秀才」
とも呼ばれ、その実力は
当時から高く評価されてました。


一方の高杉晋作も、吉田松陰から
久坂玄瑞のライバル的な存在として
その才能を高く評価されてました。


「識の高杉、才の久坂」
という言葉があります。


識=知識
才=才能

の事みたいで、久坂玄瑞には
天賦の才があったという事を
高杉晋作には多くの知識を
持っていたという意味だそうです。


しかし、こうした才能を持ちながら
久坂玄瑞は1864年の禁門の変で
25の若さで自刃してしまいます。


久坂玄瑞の辞世の句と墓所について!


このときの久坂玄瑞の辞世の句
以下のものだとされています。


時鳥
(ほととぎす )
血爾奈く声盤有明能
(ちになくこえは ありあけの)
月与り他爾知る人ぞ那起
(つきよりほかに しるひとぞなき)



何かとても血気盛んな歌ですね。

私の志と想いは
夜明けに輝く月のほかに
知ってる人はいない

という意味です。

自分が孤独だという事を
詠んだ唄なのでしょうか。

久坂玄瑞は禁門の変に対して
もとは乗り気ではなかったのですが
藩の先輩である来島又兵衛に
押し切られてやむを得ず出兵した
という背景があります。

こうした背景を考えると
久坂がこんな唄を詠んだのも
わかる気がします。

スポンサードリンク


また、久坂玄瑞の墓所ですが
京都にある霊山護国神社
親友の高杉晋作らと共に
現在も眠っています。


久坂玄瑞の遺体は、
彼が禁門の変で自刃した後
京都の詩仙堂という寺院に
一時埋葬され、明治に入って
この護国寺に移されたそうです。


また、萩市にある松陰神社にも
吉田松陰や高杉晋作らと共に
遺髪が祀られています。

久坂玄瑞墓萩にある久坂玄瑞の墓



他にも久坂玄瑞を祀る場所は
山口県内にいくつかあるみたい。


郷土の偉人の1人として、
久坂玄瑞は今でも厚く
尊敬されているんですよね。


久坂玄瑞に対する高杉晋作の手紙とは?


 久坂玄瑞高杉晋作手紙

一方、当時の高杉晋作
この年の1月に脱藩した罪を問われ
野山獄へ閉じ込められてました。
(禁門の変は7月に勃発)


当時の高杉晋作は禁門の変の事も
もちろん知っており、親友でもある
久坂玄瑞を色々心配してたみたい。


親友の現在の状況を知りたいと思う
高杉晋作は、吉田松陰の兄の梅太郎に
何回も手紙を送ったと言われています。


その一部を読みやすくしてみました。


噂によると、秋湖兄(久坂玄瑞)
宍翁(宍戸真澂)などが
禁門の変で戦死したとのことですが
どういうことなのでしょうか。

とにかく誤報が多い世の中ですから
とても信じることができません。

最近は毎晩、秋湖兄(=久坂玄瑞)が
夢に出てきます。

だから僕は心配でなりません。

どうか実情についてご存知のことを
一刻も早く知らせて頂けますよう
心からお願い申上げます。


高杉晋作の夢の中にまで
久坂玄瑞は出てきたんですねw

よほど心配してたのでしょう。

また、高杉晋作はこれ以前に
久坂玄瑞に宛てた手紙を
記しています。


お手紙を下さらないのは
少しばかり不満です。

おせじを言うつもりはないのですが
私にとってのあなたは、とても自分が
及ぶことが出来ない人です。

また同時に、頼れる人だとも
前々から心底思っていて
いずれ義兄弟の契りを
結びたいと思っている程です。

これまでこうしたお世辞を
直接口に出して言うことは
なかったのですが…

江戸での勉強は面白くなく
天下や藩のことについて
あれこれ考えてる時には
つい君の顔が浮かんできます。


この手紙は、2人がまだ
松下村塾で学んでいた時に
江戸で遊学していた高杉晋作が
地元の萩にいる久坂玄瑞に対して
宛てた手紙です。

何だかラブレターみたいですね笑

一方、こうした高杉の手紙に対して
久坂玄瑞が返信を送ったという
記録はないみたいです。

今で言うLINEの「既読スルー」
みたいなもんでしょうか笑

高杉晋作は久坂玄瑞が亡くなった
その3年後に27歳で没してます。

この2人の親友は、
泉下で何を語り合ったのか
その話を聴いてみたい気がしますね。

まとめ


この記事のまとめです。


・久坂玄瑞は「長州第一の秀才」と呼ばれるほど高く評価されていた。
・久坂玄瑞は死去する前、自らの孤独を詠んだ辞世の句を残した。
・久坂の墓は、京都の霊山護国神社や萩の松陰神社で祀られている。
・高杉晋作は牢獄で、久坂の安否を問う手紙を杉梅太郎に送っている。
・江戸に遊学してた高杉晋作は、地元の久坂に手紙を送った事もある。


記事をお読みいただき
ありがとうございました。


では!

関連記事(一部広告含む)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る
  1. この記事へのコメントはありません。