こんにちは。Masashiです。
大河ドラマ「花燃ゆ」で
北大路欣也さんが藩主である
毛利敬親を演じてますね。
この毛利敬親という人物は
その評価が人によってバラバラで
中々面白い人です。
最近は名君だと言われる傾向が
強い気がしますけどね。
ここでは毛利敬親に関する逸話を
吉田松陰と木戸孝允の2人を絡めて
紹介します!
毛利敬親は吉田松陰に師事していた?
毛利敬親のプロフィールです。
・1819年に毛利家の分家として生まれ1871年に死去した。
・先代藩主の養子となり1836年に13代目の長州藩主となる。
・家柄や身分、年齢にこだわらず、優秀な人材を輩出した事で有名。
・家臣の意見をよく聞いたが、自分の意見を述べる事はほぼなかった。
・妻との間に子供は出来なかったので、養子の元徳に家督を継がせた。
「花燃ゆ」の1話の冒頭で
北大路欣也さんが演じる
毛利敬親が少し登場します。こちら
毛利敬親と言えば、藩内の優秀な人物を
次々と抜擢した事で有名な人物です。
彼に抜擢された吉田松陰や高杉晋作が
歴史上で大きな役割を果たしたため、
今ではこの毛利敬親は名君と評価される
傾向が強い気がします。
そんな毛利敬親ですが、吉田松陰の才能に
早くから目をつけていた事でも有名です。
毛利敬親が吉田松陰と初めて合ったのは
彼が22歳、吉田松陰に至っては11歳という
年齢のときでした。
吉田松陰と言えば、おじの山鹿流兵学者の
玉木文之進から儒学や兵学、詩文や署などの
様々な教育を施された事でも知られています。
「花燃ゆ」でも、まだ子供時代の松陰が
文之進からスパルタ教育を受けてる様子が
描かれてましたよね。
そんな吉田松陰は11歳のときに
敬親の前で兵学を講義する機会がありました。
松陰はこのとき、山鹿流の兵法を彼の前で論じ
毛利敬親に高く評価されただけでなく、
敬親はその後、進んで吉田松陰から学問を
学んだとも言われています。
ちなみに吉田松陰に対して、
毛利敬親は以下のように発言しています。
儒者の講義はありきたりの言葉が多く眠気を催させるが、
松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる
(引用:Wikipedia)
ある意味毛利敬親は吉田松陰の
「第一の弟子」なのかもしれませんね。
また、吉田松陰が15歳の時に、
毛利敬親は松陰に「孫子について聞かせてくれ」
と、いきなり問いかけた事もありました。
これってかなり無茶ぶりですよねw
しかし吉田松陰はこれも難なくやり遂げます。
これには毛利敬親も驚愕したとか・・・
このため敬親は、松陰の事を色々気にかけていて
彼が脱藩した時や意見書を出したときも
寛容な態度で接しています。
当時の発言はこちら。
寅次郎(松陰のこと)の心を慰めてやらねばならぬ。
思うことをすべて書かせ、余に見せるようにせよ。
当時の「脱藩」と言えば、
死罪に値するほど罪深い行為でした。
これを考えると、松陰に対する敬親の対応が
いかに緩やかだったかがわかりますね。
その後、毛利敬親は高杉晋作や小田村伊之助など
吉田松陰に縁が深い人を何人か抜擢してますが
その際、かつての「師匠」であった松陰の事を
色々思い返してたのかもしれませんね。
毛利敬親を名君だと木戸孝允が思った訳は?
毛利敬親が家柄や年齢に関わらず
多くの優秀な人物を抜擢した事を
ここまででは紹介してきました。
そのため、多くの長州藩士が
この毛利敬親の事を慕ってたそうです。
今でも山口県には、毛利敬親をまつる
碑文が多く残されているんですよね。
この毛利敬親を名君と評価した人物には
「維新の三傑」である木戸孝允も含まれます。
幕末での木戸孝允と活動と言えば、
長州藩のリーダー格として薩摩藩と
薩長同盟を締結したことが有名ですよね。
明治時代になると毛利敬親は隠居し
1871年に52歳で亡くなっています。
その3年前の1868年、毛利敬親は
かつての家来であり明治政府の重鎮である
木戸孝允から版籍奉還を促されます。
これは毛利家を始めとする全国の諸大名が
天皇に対して、自分の領地(版図)と
領民(戸籍)を返還するという改革です。
木戸孝允ら明治政府の首脳は、
日本を中央集権の強い国にするために、
日本全土を直接治めることを目指します。
木戸孝允ら明治政府はこれを推進するために
まずはかつての主君であった毛利敬親に
版籍奉還を依頼しにいきます。
彼としては、まずはかつての主君である
毛利敬親が模範となってくれるよう
期待してたんですよね。
そしてその期待通り、毛利敬親は
版籍奉還を受け入れます。
ホッとして退出しようとする木戸孝允。
そのとき、毛利敬親は彼を呼び止め
以下のアドバイスをしたそうです。
これほどの変革を行なうには
その時機を見計らうことが大事
これを聞いた木戸孝允は、毛利敬親が
非常に聡明な人物だと感じ入ったとか。
個人的に毛利敬親は、時代の変化や
身の回りの状況を読むのに長けていた
人物だったのではと思います。
家臣に政治を丸投げしていたのも、
彼らがきちんと政治をやってくれると
理解していたためでしょう。
また、版籍奉還の逸話を見ても
時代の流れに沿った生き方が出来た
人だったのだと思います。
まとめ
この記事のまとめです。
・毛利敬親は幕末の長州藩主で、その評価は一様ではない。
・吉田松陰などの優れた人物を、身分や年齢を問わず抜擢した事で有名。
・毛利敬親は11歳下の吉田松陰を評価していて、彼に兵法を学んだ。
・毛利敬親は多くの長州藩士に慕われており、彼の碑文も残されている。
・毛利敬親の版籍奉還時の対応を見た木戸孝允は、改めて彼を評価した。
記事をお読みいただき
ありがとうございました。
では!
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